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2003.4.7
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2003年4月4日NHKが流さなかった映像。
チグリス川にかかる橋で殺されたイラク兵。
人間性を失った戦争を続ける米英兵にとって
イラク兵の死体は“ありふれた景色”だ
悲惨な戦争を悲惨では無い戦争であるかのように伝える報道は「誤報」ですし、たとえば「米英軍勝利による早期決着」を想起させる戦局報道のように、大義の無い戦争にあたかも大義があるかのように伝える報道があるとすれば、そのような報道も誤報といえます。
民衆の心の中で、「フセインvsブッシュ」とは異なるもうひとつの戦争が発生しています。
「暴力vs法」という戦争が。
あなたはどちらに従いますか? 従うべきだと思いますか?
力に従いますか? それとも法に従いますか?
2003年4月2日NHKが流さなかった映像
戦争で視力を失った少年。
子どもたちの心のなかで復活するフセイン政権を
米英軍は破壊することができるだろうか?
対イラク戦争の本質は、フセイン政権が続くか続かないかというような問題ではありません。民衆が「力と恐怖の政治」と「法と協調の政治」どちらを選ぶのか、という問題です。
フセイン政権が倒れたとしても、民衆の心の中にフセインが生き残こり、民衆が力と恐怖の政治を選択すれば、対イラク侵略戦争後も、テロや地域紛争などの形で戦争は続き、フセインのような男は何度でも生まれつづけるでしょう。
2003年4月NHKが流さなかった映像
イラク南部の都市の市街戦の結果。
あと何人こんなふうに殺すつもりなのか?
内臓が散らばって流れるくらい激しい白兵戦が、実際にイラクで起きています。
上の写真のような凄惨な殺し方を、正義の結果として平然と受けとめられる人間がいたら、私はその人の人間性を疑うことでしょう。
狂っています、この戦争のなにもかもが。 (戦争とは元来そういうものだという考え方もありますが)
なぜテレビ局ははっきり言えないのでしょうか、「この戦争はひどい」「狂っている」「即時停戦せよ」と。
怒り、悲しみ、恐怖を感じるべき光景に接してもなお、怒り、悲しみ、恐怖を表現せず淡々と情報を流す人間の態度は、「中立」でも「公正」でもあり得ません。
人間の生命は、単純な善悪では片付けられません。たとえ自然な病死であっても、家族がその死を自然なものとして受けとめるには時間がかかります。
人間が人間を殺し殺されている。そんな死を、正しいこととして受けとめられる人の感受性を、私は疑います。
「だからみんなフセインが悪い。なにもかもフセインが悪い。全部フセインが悪い。」と言いつづけて自己肯定し続ける戦争支持者たちの思考停止ぶりには、もうつきあいきれません。
テロと大量破壊兵器の証拠は査察で報告されず、国土を大半を占領しても尚、米英日政府は証拠を見つけ出せないでいます。
2003年4月5日、NHKが流さなかった映像
米英軍が作った遺体と用意された棺
肉片の一部しか見つからない遺体も多い
イラク戦争戦没者リストを更新していて、気づいたことがあります。
開戦後10日目あたりから、イラクの師団が壊滅したというような情報がしきりに流されはじめたのとは対称的に、どこで誰が何人死んだのかという具体的な情報がぴたっと流れなくなりました。
あたかも「もう何人死んだかなんてどうでもいい」と言わんばかりに。
戦い、死んでいったイラク兵と米英兵ひとりひとりに、名前があり、思い出があり、家族があり、生活と人生があります。なぜそういう情報を伝えないのでしょうか?
戦争になる前、何を食べ、なにを考え、何を話していたのか。戦っている時に何を考えていたのか。殺されたあと死体はどうなったのか。その死体を家族は見たのか。家族は兵士の死をどう受けとめたのか。なぜ伝えないのでしょう?
メディア関係者が普通の人間があたりまえにもっている生命に対する常識的な感受性を失い、人殺しのように生命に無感覚な状態になっているのではないかと、テレビの「戦況報道」や「戦況解説」を見ていて感じることが多いです。
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