---- 北の系2005 ----
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資料/国会/宮台真司参考人質疑
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2003.2.11

1999年4月27日の衆議院青少年問題に関する特別委員会の会議録より、宮台真司参考人質疑の部分を抜粋して転載します。

児童買春・児童ポルノ処罰法が制定されたのは1999年5月ですから、児ポ法制定の直前に実施された参考人質疑ということになります。尚、宮台参考人の招致推薦政党は社会民主党です。

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第4号 平成11年4月27日(火曜日)

平成十一年四月二十七日(火曜日)
午前九時十分開議
出席委員
委員長 石田勝之君
理事 小野晋也君 理事 河村建夫君
理事 岸田文雄君 理事 佐藤静雄君
理事 田中甲君 理事 肥田美代子君
理事 池坊保子君 理事 三沢淳君
岩下栄一君  岩永峯一君
江渡聡徳君  大野松茂君
奥谷 通君  奥山茂彦君
倉成正和君  小坂憲次君
小島敏男君  佐田玄一郎君
佐藤勉君  実川幸夫君
下村博文君  水野賢一君
目片信君  石毛えい子君
坂上富男君  松本惟子君
山元勉君  太田昭宏君
旭道山和泰君  一川保夫君
松浪健四郎君  石井郁子君
大森猛君  保坂展人君
 委員外の出席者
参考人
(早稲田大学学生)乙武洋匡君
参考人
(新潟大学助教授)(DCI日本支部事務局長)世取山洋介君
参考人
(東京都立大学人文学部助教授)宮台真司君
本日の会議に付した案件
 青少年問題に関する件

石田委員長 これより会議を開きます。

 青少年問題に関する件について調査を進めます。

 本日は、参考人といたしまして、早稲田大学学生乙武洋匡君、新潟大学助教授・DCI日本支部事務局長世取山洋介君、東京都立大学人文学部助教授宮台真司君に御出席をいただいております。

 この際、参考人各位に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用中のところ本委員会に御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人各位には、青少年問題につきまして、それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただきたいと存じます。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 まず、乙武参考人、世取山参考人、宮台参考人の順に、お一人十五分程度で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑に対してお答えいただきたいと存じます。

 念のため申し上げますが、御発言はすべてその都度委員長の許可を得てお願いいたします。また、衆議院規則の規定により、参考人は委員に対して質疑ができないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。

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石田委員長 どうもありがとうございました。

 次に、宮台参考人にお願いいたします。

宮台参考人 おはようございます。宮台真司と申します。

 私は、もともと理論社会学、数理社会学が専攻でございましたけれども、自分の興味もありまして、戦後サブカルチャー論、宗教論、そして戦後教育論、あるいは青少年の例えば援助交際、薬、その他ストリートと言われる場所での、あるいはコミケットとか言われる同人誌即売会などの場所でのコミュニケーションをフィールドワークしてきた、そういう者でございます。

 きょうの私のテーマは、戦後の日本の教育の一つのモードになっていた協調性重視型の教育の持っている問題点を指摘することであります。私の前にお話をされたお二方、乙武参考人、世取山参考人のお話を聞きまして、「切り口」というふうに書きましたこのレジュメの冒頭にあります話に、もう一つ新しい切り口を加える必要があるというふうに感じましたので、それからまずお話をいたします。

 乙武参考人は、なぜ日本で人それぞれが違うのか、子供がそれぞれ違うのかということを子供たちにわかってもらう教育がなかなかうまく進まないのかという問題提起があり、世取山参考人の方からは、何ゆえにこの日本で、国連の、とりわけ先進国では当たり前になっている子どもの権利条約の基本精神がなかなか理解されないのかという問題提起がありましたが、そのことに関連する問題であります。

 今国会で成立が予定視されている児童買春・児童ポルノ禁止法案(通称)がございます。これについては、昨年九月に原案が出されて以降、私、議員会館でシンポジウムを開かせていただいたり、いろいろなロビー活動をさせていただきまして、原案の持っている問題点をいろいろ指摘させていただきました。

 それで、今国会に提出されました修正案を見ますと、私たちが主張していた、最低限四点だけ修正をしていただきたいという部分が基本的に盛り込まれているわけです。この基本的な修正点四点ということをお話しいたします。

 まず第一は、法律の文章から健全育成という言葉を削除することです。二番目は、児童ポルノ、チャイルドポルノの定義の中から漫画やアニメーションを含めた絵を排除することです。三番目に、単純所持規制、持っているだけで捕まる、そういう条項があったわけですが、それを削除することです。そして四番目に、地方自治体に存在する、通称淫行条例や淫行規定と呼ばれているものについて、これを効力停止するということであります。この四点は、基本的にある程度入れられたというふうに思っております。

 なぜこの四点が修正されなければならないというふうに私が、あるいは私たちが考えたのかということをお話をさせていただきます。

 先進各国は、日本以外というふうにお話しする必要がありますが、七〇年代以降、セックス、性に関する規制措置を行う場合の基本理念は、以下のように変わってきました。

 すなわち、それまでは、秩序、よき秩序を守るために性を規制する必要があるという観点であったものが、人権を守るために、あるいは人権侵害を抑止するために一定の規制措置を求める必要があるというふうに変わったわけであります。簡単に言えば、秩序重視型から人権重視型ということになります。

 したがって、一九七〇年代以降、先進国の大半は、アメリカを除きますけれども、売買春は合法化されてきています。それ以前は、売買春は秩序に反する振る舞いとして禁止されてきたわけですが、七〇年代以降、とりわけ成熟社会になってまいりますと、もちろん人身売買はいけないし、性虐待はいけないし、意思に反した拘束はいけないに決まっているわけですけれども、売買春それ自体が直ちに人権を侵害するわけではないということになりますから、先ほど申し上げたような基本理念の変化があれば、売買春は合法化の方向に向かうわけであります。

 本質的な話を申しますと、例えば、青少年の売買春、これをどう考えればいいのか、援助交際をどう考えればいいのかということに関する問題です。

 先ほど申し上げました児童買春・児童ポルノ禁止法案、これはもともと、一九八九年の子どもの権利条約の国連総会採択を機に、子供の権利を守るという観点から、幾つかの国で不十分な、子供の性にかかわるさまざまな権利の保護に関する法的な施策を整えてほしい、そういう国連からの要請というか期待に対して、先進国の中で日本だけがそのような趣旨に沿う法整備を行ってこなかったために、一九九六年の通称ストックホルム会議で日本が非常に強く批判され、国会議員の方々が大恥をかくという事件があったわけであります。

 それを機に、児童買春・児童ポルノを防止する法案をつくらなければいけないということになったのでありますが、そのような法案作成プロセスで、なぜかこれが援助交際禁止法案の趣旨に変わっていってしまうわけです。言いかえれば、子供の権利の保護という観点からよき秩序を維持するという観点に、なぜか道徳主義的に変化をしてしまったわけであります。これがつまり本質的な問題であるわけです。

 一般に、先進国の常識では、以下の四つの問題は区別されます。

 つまり、売買春のよしあし。第二は、青少年――青少年というのは、ここでは性的合意年齢に達した、日本の場合でいえば十三歳以上、法的成人に達していない、例えば児童福祉法上児童とみなされる十八歳未満、十三歳以上十八歳未満というふうにお考えください。青少年がセックスをすることのよしあし。そして三番目が、青少年が売買春にかかわることのよしあし。そして四番目が、性虐待のよしあしです。

 ちなみに、十三歳未満の性的合意年齢に達していない少女や少年を相手にした性行為は、これは性虐待に分類されます。基本的に、八九年の子ども権利条約以降、各国で期待されていた性に関する規制措置は、この性虐待に基本的に照準が合っていたというふうにお考えくださるといいわけです。

 先ほど申しましたように、先進国では売買春は、七〇年代以降、合法化の流れです。青少年がセックスをすることについては、これは、国連加盟国あるいは先進各国は、基本的には性的合意年齢を下げる方向で、つまり青少年のセックスを認める方向で推移しています。そして性虐待については、日本よりも他の国ははるかに重罰、一般的に重罰であります。

 では、青少年が売買春にかかわることはどうか。これは、規制をするべきだというふうに国連の子どもの権利委員会から各国に勧告が出されています。

 青少年が売買春にかかわることが規制されなければいけない理由はなぜでしょうか。これは、売買春がいけないからではありません。青少年がセックスすることがいけないからではありません。性虐待がいけないからではありません。では、なぜこれはいけないんでしょうか、というふうに質問してはいけないらしいんですが、私の方でお答えをいたします。

 これはつまり、子供というのがどういう存在なのかということに関する基本理念と関係しているわけです。彼らが、つまり青少年が見習い期間である。簡単に言えば、自分たちの責任でなされた試行錯誤によって自分自身の尊厳や自尊心を獲得していくべき期間だというふうにみなされているからであります。

 売買春は、一般的に大変に金銭的な誘因、インセンティブが強いですから自由な試行錯誤を阻害する可能性が高いです。さらに、年齢が下であれば、年長者の年齢による優越的な地位の利用によってさまざまな問題を受けやすい可能性があります。例えば、交渉力が不足しているがゆえに、自由意思に基づく契約といいながら理不尽な条件をのんでしまったり、契約不履行に抗議できなかったりする可能性があります。さらに、問題解決能力の問題があり得て、例えば妊娠や、つまり望まない妊娠や性感染症を自分で解決できないために、周りを巻き込み、そのプロセスで自分自身も傷ついてしまう可能性があるわけです。

 そのような自由な試行錯誤が阻害される可能性、言いかえれば、青少年期、試行錯誤期、見習い期にある彼らに自由な試行錯誤をしてもらうために、つまり自由のために、青少年期の売買春は禁止されるべきだという理念になっているというふうにお考えいただきたいと思います。これが第一の切り口です。

 第二の切り口で、レジュメにあります「匿名メディア犯罪」と書いてあるところ、このお話をさせていただきます。

 いろいろはしょりますけれども、例えば、マスコミ的な扱いでは、現代人は寂しいんですねというふうな言い方がよくなされます。しかしながら、これは的外れと言わざるを得ません。現代人ないし近代人は、一般的に寂しいのです。

 それはなぜかといえば、これは社会学の基本常識ですけれども、昔の田舎にいる人間たちとは違って、近代人は、さまざまなメディアあるいは交通、移動を通じて、その想像力や感受性の地平を家族共同体や村共同体の外側に広げています。したがって、一つの家族の中で、一つの共同体の中で一緒に暮らしていても、各人は別々の内面を持っていることが当たり前です。したがって、家族で暮らしているからといってすべてを分かち合う、同じ村にいるからといってすべてを分かち合うということは到底不可能で、その分、孤独があるのは当たり前であります。問題は、寂しいかどうかではなくて、寂しい人間がだれを頼るかです。

 日本は、これは余り意識されていないかもしれませんが、アメリカよりもどこの国よりも先駆けて匿名メディアが全国大に一般化した最初の国です。今から十五年前にテレホンクラブと言われる匿名メディアが全国大に一般化したことは、皆さん御存じのとおりです。これは、アメリカでインターネットが一般的に普及する五年以上前に普及しているわけです。日本は匿名メディア先進国です。あるいは、言いかえれば、日本は匿名メディアをとりわけ強く、特に若い世代が要求しているというふうに言うことができます。

 つまり、この日本において問題なのは、寂しいかどうかではなくて、寂しい人間たちがいたとして、彼らが、なぜ親しい家族や親族や友人、近隣の人間ではなくて匿名の人間たちを頼るのか、なぜ匿名の相手でなければ心を開けないのか、こういう匿名的な親密さをめぐる問題であります。これを最初に伏線として申し上げておきます。

 昨年来、特にことしになって明らかになりましたが、匿名メディア上での毒物配布であるとか、匿名メディアで出会った男性から眠り薬を飲まされて昏睡して死んでしまった女性の事件であるとか、こうしたことが話題になっています。匿名メディアが、あるいは悪い男がいろいろ批判をされています。それはそれでいいでしょうが、本質的な問題が忘れ去られています。

 私たちは、例えば、小さな子供に、知らないおじさんについていってはいけませんとか、知らないおじさんからもらったものを食べてはいけませんというふうに言わなければならないことになっていたはずでありますが、これは、実際、子供にではなくて、まず大人に言わなければならない。

 言いかえれば、この日本は、成熟社会であるにもかかわらず、この社会は昔の田舎とは違うわけです。どんな人間が、どういう感受性を抱きながら、何を考えて生きているのか必ずしもわからない社会になっています。みんな同じではありません。そうした基本的な感受性を持っていない大人が多過ぎるわけです。したがって、日本ではそのような大人たちによる協調性重視型、みんな仲よし教育が学校でも家でも行われています。その結果、例えば匿名メディアで出会う人間がだれであるかわからないという基本的な警戒心というか、そういうものが失われています。

 さらに言うならば、例えば伝言ダイヤルで昏睡させて女性を殺してしまったとされる容疑者でありますが、このまま放置したら死ぬかもしれないと供述したというふうに報道されています。これが真実であるといたしますと、死ぬかもしれないと思いながら、しかし放置したわけです。

 こういう感受性を以前から私は、仲間以外は皆風景というふうに申し上げております。どういうことかというと、仲間は大事だけれども、仲間以外は人間も電信柱も缶からも全部同じであるというふうな感受性です。このような感受性は、ストリートにいる連中たちをフィールドワークすると、全く普通に当たり前になっているということがわかります。

 私がみんな仲よし教育の弊害と言うのは、この問題とかかわるわけです。社会が複雑になれば、仲よくできる範囲には実際のところ限界があります。問題は、みんな仲よしではなくて、必ずしも仲よくできない人間たちとどのように共生するか、つまり侵害し合わないで、あるいは助け合って、相互扶助をしながら生きるかということであるはずです。基本的に、このようなタイプの教育が日本でなされるということはありません。

 例えば、私は幼児番組を評価する仕事も一方でやっていますが、先進国の幼児番組の中で、みんな仲よしという協調性重視型の番組をつくっているのはただ一国、日本だけであります。あるいはというふうに言うと時間がなくなりますのでやめますが、一般に、日本以外の先進国の幼児教育や幼児番組の理念は、自立と相互扶助と言われるものに基づいています。

 ファーストプライオリティー、一番大事なのはインディペンデンシーですね、自立、独立であります。例えば「セサミストリート」などを見ればよくわかります。子供に、君は何がしたいのと聞くわけです。僕はこれがしたいんだと答えます。それがしたいんだったらみんなに言わなきゃ。言わなきゃ周りに伝わらないぞ。つまり、周りが何を言っていてもしていても、自分がしたいことを必ずちゃんと言えること、これが一番重要なことだというふうにどこの国でも教えられます。日本では教えられません。

 そしてセカンドステージがあります。そうか、君はそれがしたいのか。でも、ひとりじゃできないぞ。だれかに助けてもらわなきゃ。そのためには友達をつくらなきゃいけないな。友達をつくるには、君、魅力的じゃなきゃだめだぞ。さらに、友達がしてほしいことをしてあげれば、友達は君がしてほしいことをしてくれるぞ。言いかえれば、これが相互扶助であり、貢献、コントリビューションなんですけれども、社会あるいは社会性を媒介しないと本当は自分がしたいことさえできない、自分の幸せさえやってこないということを学んでもらう。つまり、これがセカンドプライオリティーになります。

 この一番目と二番目を組み合わせたものが自立と相互扶助と言われる理念でありますが、これが日本の幼児教育や、あるいは青少年教育でも同じでありますが、そこで教えられることは基本的にはありません。みんな仲よしという形であります。

 三番目の切り口、学級崩壊の話をさせていただきます。

 マスコミ的な扱いでは、子供たちがおかしくなったということになっています。しかし、これは社会科学的な常識からいうと間違った考えです。むしろ近代学校教育が極めて特殊であって、この特殊な近代教育が成り立つ条件が最近怪しくなってきた、そう考えなければいけません。そのような考え方は七〇年代の社会科学において、特に社会学や人文科学の一部においては常識化してきております。

 あるいは家庭がおかしいという言い方もあります。もちろん、おかしい家庭はたくさんありますが、成熟社会、つまり近代が成熟期に入れば、先ほど申し上げたような理由で人間の感受性や想像力や行動の半径が非常に広がることによって、一般に、家庭や共同体の教育力は低下せざるを得ません。したがって、特定の共同体や、例えば家庭なら家庭に負担をかけ過ぎる、そのようなメカニズムは基本的に必ず無理を生じるような仕組みになっています。

 時間がないのですっ飛ばしながら行きますけれども、皆さん御存じかどうか、近代学校教育には二つのモデルがあるとされています。一つは軍隊と監獄です。

 例えば準備体操をするときに、整列、気をつけ、前へ倣えとやります。例えばスイミングクラブで同じように準備体操がありますが、こういうことは一切ありません。つまり、これは準備体操にとって必要なのではありません。号令一下、規律正しく集合的に身体を動かしてもらうためにこのような軍隊的な規律が採用されています。現に、体育の実技の科目の九割以上は軍事教練から借り出したものであることは、もはや常識化しているはずでございます。

 同じように、学校教育のスタイル、先生が高い壇上に立って、すべての子供を見渡せる場所に立ちながら教育をするようなメカニズム、これもそれ以前の教育のシステムにはなかったものであります。これも、十九世紀のベンサムというイギリスの功利主義者が考えた効率的な監獄監視システム、つまり、いつ見られているかわからないというふうに思うので囚人たちがびしっとするというシステムの基本的な応用編であるというふうに考えられています。

 軍隊は、戦いに勝つためにこういう規律が必要です。監獄あるいは刑務所は、社会的更生のためにこういう規律が必要です。

 では、なぜ近代学校教育で軍隊と監獄のメカニズムが採用されたのか。それは工場労働者を養成するためです。昔の伝統社会であれば、雨が降ったりあらしになったりすれば、働くか働かないかは個人の自由、その人次第でありますが、そうなってしまっては工場のシステムは回りません。納期は守れません。当然のことながら、工場労働者としての振る舞いは伝統社会のあり方とは全く違っています。そのような振る舞いを子供たちにしてもらうために近代学校教育というのは存在した。日本以外の国でもそうであります。

 ところが、一九七〇年代以降、我々の社会は成熟社会と呼ばれる新しいステージに入りました。それまでの近代過渡期とは違いまして、ここで三つの違いが挙げられていますが、例えば社会の流動性は増大します。流動性が増大するというのは、簡単に言えばいろいろな人間と会えるようになる、いろいろな組織に所属できるようになるということであります。そうすると、何かと一体化することよりも、組織から外れようが外れまいが、自分は自分であると言えるようなタイプの尊厳が必要になってきます。

 さらに、生産時間よりも消費の時間が長くなってきます。生産時間、つまり工場労働者である時間が長ければ教育はそれに言及するだけでよかったのですが、消費の時間の方が生産の時間よりも長くなれば、消費を通じて幸せになってもらうための教育が必要です。それは、規律正しくびしっと振る舞うこととは全く無関係な教育であらざるを得ません。

 さらに、このような成熟社会になれば、今までの良質で安価な製品を大量につくるという工場労働に対する要請よりも、むしろ高付加価値、つまりイノベーティブなアイデアを上から下まで出してもらうことが重要になってきます。この点でも、協調性よりも個人的な試行錯誤が重視されざるを得ないような状況になります。

 きょうはどうも切り口だけで話が終わりそうでありますけれども、最後に、愛国心、日の丸・君が代問題が昨今国会などでも話題になっていますけれども、この問題を最後に言及しながら、現在の日本における子供観あるいは人間観にやや問題があるのだというお話をさせていただきたいと思います。

 人間の尊厳については二つの考え方があります。一つは、大いなるものと一体化することが人間の尊厳だという考え方です。あるいは、崇高なるものとの一体化こそが人間の尊厳だという考え方です。もう一つは、個人の責任でなされた試行錯誤の結果積み重なった自尊心、これこそが尊厳であるという考え方です。前者は十九世紀のドイツ国法学において洗練され、後者は十八世紀、十九世紀のイギリスの自由主義哲学において洗練されてきた考え方であります。

 愛国心という場合に、実はこの二つの尊厳観に従った分岐があります。前者のドイツ国法学的な考え方では、まさにみずからが一体化するべき崇高なるものが国家であるという考え方です。したがって愛国心とはそういうものになります。後者は違います。後者は、各自が自由に試行錯誤するために、つまり自由に振る舞うために必要な制度、枠組み、これは歴史の中で血によってあがなわれた公共財であるという考え方です。したがって、そのような公共財を守るために命をかけることは崇高なことだ、つまり、個人の尊厳がまずあり、その個人の尊厳が担保されるために、場合によっては自己犠牲も含めた公共財への貢献が必要である、コントリビューションが必要であるという考え方です。

 さて、日本で愛国心という場合にどちらを教えるべきなのでありましょうか。あるいは、どちらを教えているのでありましょうか。ちまたの議論を見てみると、日本で言うパブリック、公というと、必ず、国が一丸となったような共同性、つまり公イコール共同性というふうな発想がいまだにまかり通っています。これは、社会科学的な常識からいえば十九世紀以前的な考え方です。

 近代社会におけるパブリックとは、共同性ではなくて共生です。いろいろな共同体、家族、地域社会に属する人間が、あるいは異なる感受性や作法を持った人間が、侵害し合わないように共生するために一定の想像力や一定のルールを必要としている、そのような想像力やルールの領域をパブリックというふうに呼ぶ、そういう常識になっています。

 日本でパブリックという場合に一体どちらを教えるつもりでありましょうか。もちろん、日本以外の先進国は、愛国教育、愛国心教育をやっています。パブリックというものの重要性を教えています。しかしそれは、日本でいわゆる保守論壇と言われるところで一般に推奨されているような教育とは全く質が違います。実は、そうした問題も、冒頭から申し上げている日本の子供観の問題と関係しています。

 人間は、この成熟社会においては、以前のように、これさえすればおまえは幸せになる、これに一体化すればおまえは幸せになるという言い方では無責任であります。個人の幸いは個人の試行錯誤の中でつかみ取ってもらうしかない社会、これが成熟社会であります。

 したがって、教育というものに求められる態度は、従来の共同体的同調を支援するタイプの教育ではなくて、安全な枠の中で、しかし一定のリスクを伴いながら試行錯誤をする、言いかえれば、失敗から自分が自分であるとはどういうことなのかを学んでもらうための自己決定支援型の教育が必要なのであります。

 自己決定支援型の教育がパブリックマインドと反するのだというおかしなことを言う人たちが日本ではあふれていますが、とんでもありません。日本以外の先進国では、自己決定とパブリックマインドは全く両立しています。子供の自己決定を重視すると親は何も言えませんねなんというふうなばかなことを言う親がいっぱいいますが、大笑いです。

 日本以外の国は、子供の自己決定ははるかに重視されていますが、親は子供にがんがん日本以上に言います。それはなぜかといえば、最後はおまえの問題だということがあるからですね。逆に、協調性、和を重視する日本の親子は、のりを壊さないように、子供にちゃんとしたことが言えません。これが、共同体的なメンタリティーが成熟社会で陥らざるを得ない逆説的なわななのであります。

 私の話は以上です。(拍手)
石田委員長 どうもありがとうございました。

・・・・・・・・・
石田委員長 これより参考人に対する質疑に入るのでありますが、理事会協議によりまして、最初にあらかじめ申し出のありました委員が順次質疑を行い、その後、自由に質疑を行うことといたします。

 なお、発言は、自席から着席のままで結構です。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。岸田文雄君。

岸田委員 自由民主党の岸田文雄でございます。

・・・・・・・・・
 もう残り時間がわずかになってまいりましたので、最後に宮台参考人にちょっとお伺いいたします。

 宮台参考人、社会学者として本当に大変ユニークな、精力的な、そして非常に多分野にわたって活動されておられること、敬意を表し申し上げます。きょうも、時間が短いものですからその思いの本当に一部しか話していただけなかったようでありますが、そのいろいろな御活動の中で、一つちょっとお伺いしたいと思いますのは、青少年問題に大変関係のある問題として家族の問題というのがあるわけですが、その際に、宮台参考人が家族幻想という言葉を使っておられる。これは何か書いたもので見たことがあるんですが、この家族幻想というものの真意をちょっとお話しいただき、そしてそれがどう問題なのか、そしてどうあるべきだとお思いなのか、それについてひとつお聞かせをいただけますか。

宮台参考人 まず、僕自身が今この段階で、あるべき家族というのはどういうタイプのものなのかというのをお話しします。その話は、世取山さんが今お話しになったことと非常によく似ています。

 まず、この複雑な成熟社会では、これさえすればおまえは幸せとか、他人と同じようにやれば自分が幸せになるということはあり得ません。そのためには、多様な試行錯誤をする力が必要です。多様な試行錯誤をするには、しかし、失敗を恐れない力、あるいは失敗にくじけない力が必要です。失敗を恐れる人間は、怖がりは試行錯誤できません。

 そのような、失敗にくじけない、失敗を恐れない力は、実は根源的な自尊心、あるいはベーシックトラスト、基礎的な信頼によって与えられます。つまり世界はオーケーだ、自分はオーケーだという感じです。それを与えるのが、実は発達の初期段階において接する大人、家族ですね。

 先進国の教育理念の多くは、特に年少者の段階においては、年齢別発達課題であるとか、あるいはカリキュラムに従ってできれば承認するとかいうやり方ではなくて、何ができてもできなくても、どういう顔かたちをしていても、おまえがいるだけでおれは、周りは幸せだ、そういう感覚を伝達すること、つまり、知識や価値観の伝達ではなくて、承認の伝達が課題だというふうに考えられています。家族というのはそういう場であるべきだというのが僕の考えです。

 その観点からいえば、具体的な話になりますが、例えばひたすら子供の安全を願う、あるいはその安全に抵触するようなことがあるとヒステリーを起こすような親は、子供にとっては余りいい存在ではありません。むしろ、子供に試行錯誤をしてもらうこと、自分の目と耳で見聞し、頭と心で判断するような子供の発達を願うこと、しかし失敗すればいつでも帰ってこれるホームベースを用意すること、その辺はちょっとレジュメにも書いてありますけれども、囲いをつくる、この中にいなさいと囲いをつくるのじゃなくて、いろいろ試行錯誤してきなさい、しかし失敗しても戻ってこれるよ、いつでもここにと、そういう家族であるべきですね。

 そういう観点からいうと、実は日本の家族は非常に幻想的になってしまいました。これも長く話すと切りがありませんが、一つだけわかりやすい例を挙げます。

 日本は、一九七五年を境に教育投資が急増し、家庭内に占める教育費割合も、小中学生の塾通いの割合も急増してまいります。私の言う学校化、つまり家や地域社会が学校の出店になるという状態が七〇年代後半から進んできます。それが進んできた原因ははっきりしています。それが家族の空洞化なんですね。

 七〇年代前半に、日本は物の豊かさが、例えば炊飯器、掃除機、洗濯機、カー、クーラー、カラーテレビみたいなものが、耐久消費財の新規需要が一巡して、つまり成熟社会という段階に達します。そこから先に何が幸いなのかが、人それぞれになる。それまでは、みんなが豊かになること、頑張ってみんなが幸せになることが、アメリカ的な、名犬ラッシー的な生活を送ることが家族の幸せだといったような理念があったものが空洞化します。

 その空洞化した部分を、そうだ、子供をいい学校に入れさえすれば親としてちゃんとしていることになるんだという、いわば学校教育がアリバイがわりになってくるわけです。つまり、家族教育が、家庭が空洞化したから、そこに、学校あるいは学校化をする、家族が、家庭が学校の出店になるという選択が出てきている。それが子供のために親がちゃんとしていることなんだと思い込むといいますか、そういう非常に幻想的な振る舞いが出てくるわけです。

 しかしながら、ちょっと冒頭の方に申しましたように、先進国では成熟社会になって以降、それまでの協調性重視型の教育を自己決定重視型の教育に変えてまいりました。日本は実は社会が豊かであり過ぎたために、経済がうまくいき過ぎていたために、つまり資源不況を克服してしまったために、実は、先進各国が手をつけ始めた教育改革、成熟社会に見合った自己決定型、自己決定支援型の教育に転換することがおくれました。

 したがって、実は、そういう社会の変化の中で空洞化した家族が学校に思いを託すということになると、当然のことながら、子供にとって必要なことと、学校、社会を通じて子供に与えられることとの間にギャップが出てきます。その結果、子供たちは、あるいは賢明な子供たちの多くは、家や学校や地域では承認が与えられないし、自分が自分であるという感覚も得られないので、僕の言う第四空間、つまり家でも学校でも地域でもない空間に出かけていって、そこで自分の居場所を見つけるということが起こっているという次第であります。

岸田委員 ありがとうございました。

 質問を終わります。

石田委員長 次に、肥田美代子君。

肥田委員 民主党の肥田美代子でございます。よろしくお願いします。

 参考人の皆様に大変貴重な御意見をいただきました。私は、一問だけ質問させていただきたいと思います。高校入試に関しまして、お三方にお尋ねしたいと思います。

 総務庁の青少年対策本部の非行原因に関する総合的研究調査によりますと、授業がつまらないと答えた男子高校生は四三%、女子高校生は四六%なんですね。おおよそ二人に一人が授業がつまらない、そういうふうに答えているわけです。何のために勉強するのか、そういう学習の目標が失われている、いろいろな原因が重なっているとは思います。

 その中で私は、高校入試制度は大変大きな影響を与えていると思っているわけです。自分が入りたい高校ではなくて入れる高校に振り分けられますし、授業がおもしろくないというのも理解できることです。高校入試は、その子の個性とか興味でありますとかを再確認したり、それから、その子がどういうことをやりたいか、そういう進路の選択を応援するものであればそれなりの意味があると思うんですけれども、現在そういう性格のものではありません。

 私は、子どもの権利条約、先ほどからお話がございましたけれども、やはり子供優先の視点から高校入試を見るべきだと思うんですね。そうしますと、現在の高校入試のあり方が、実際は大人による子供の選別でありますとか子供の序列化にすぎないんじゃないか、それが教師と子供の信頼関係を損なっている、我が国の学校教育全体にゆがみをもたらすやはり大きな原因にもなっていると思うんです。

 私は、子供の最善の利益という立場から、もう少しはっきり申し上げるならば、青少年の非行の遠因にもなっていると考えるわけで、現在の高校入試は廃止すべきと主張しております。参考人の方々は、これについてどうお考えになるか、よろしくお願いいたします。

・・・・・・・・・
宮台参考人 世取山参考人と似たような意見を持っていますが、ただ、高校入試の問題は、単独で考えるべきではなくて、ほかの教育制度全般と結びつけて考えるべきだと思います。

 高校の序列化と高校入試の問題は結びついていますが、高校の序列化は大学入試と結びついています。したがって、大学審議会の答申どおり、基本的には、入りやすく出にくい大学にしていくということが必要不可欠であると思います。

 あと、高校入試廃止という方向になりますと、当然中高一貫校がふえていくことになると思いますが、これについても私は疑問が実は幾つかあります。

 中高一貫よりも、むしろ必要なのは小中一貫、ないし中学校を下の方におろしていく。つまり、六・三制ではなくて五・四制とか四・五制にすることの方が重要ではないかというふうなのが僕の考えです。その上で、高校入試は事実上全入に近い状態であるわけですから、それを制度的に正当化していくような施策があれば大変結構なことだと思います。

 あと、もう一つは、入試制度よりもさらに重要かもしれないことは、世取山参考人もおっしゃったような、やはり高校のカリキュラムの問題であります。多くの高校が今、単位制、つまり総合科的なタイプの学校になっています。今、肥田理事から御紹介いただいたように、何十%、例えば四割、五割の生徒が授業がつまらないと言っている。その場合、今の一斉カリキュラム的な発想ですと、つまらない理由は学校がいけないからだ、こうなります。教員がいけないからだとなります。

 そうではなくて、どういう科目をどういう先生のもとでだれと一緒に聞くのかということを自分で選べるようになれば、つまらなかったのは自分の選び方が悪かったのだ、それは、学校の選び方だけではなくて、もちろん、どの先生のところで何を聞くかという自分の個人カリキュラムの組み立てが間違っていた、したがって、組み立て直せばいいんだ、つまり、自分に引きつけて問題を考えるようになるはずです。それが、まさに冒頭に申し上げた試行錯誤の問題ともかかわるわけですから、そういうタイプの教育を、実は高校だけではなくて中学校や小学校にもおろしていっていただきたいというのが私の考えです。

・・・・・・・・・
三沢委員 自由党の三沢淳です。

 参考人のお三方、本日は本当に御苦労さまです。

 まず最初に、お三方にお伺いしたいのですけれども、私はスポーツマンとして、いろいろな意味でやはり我慢をしたり協力をしたりするということを子供のころから覚えてきました。要するに、一人で勝手な行動をしますと、必ずチームというのは勝てません。そういう意味で、今自由ということで、いろいろな言葉や行動面で、子供たちがその辺のところで責任を負わないで行動しているように見受けられるんですけれども、教育の中で、協調性とか我慢をする、させるということはどういうふうに子供たちに身につけさせたらいいのか、まずはお聞きしたいと思います。

・・・・・・・・・
宮台参考人 一つは自由と責任の問題と、あと協調性と自己決定のどちらが大事なのかという問題と、二つの側面でお話しいたします。

 まず第一の問題ですが、社会学の中ではどう考えているかといえば、協調性重視型の、つまり共同体主義的な社会では人は責任をとらないというのが定説であります。せいぜい責任をとるとしても仲間に対して、会社であればせいぜい会社に対して悪いと思うだけです。それは責任とは全く無関係で、責任は実際、仲間ではない、社会に対して負うものであるという発想が日本ではありません。

 それとの兼ね合いでいえば、むしろ、責任をとることを覚えさせるためには、あるいは覚え学んでもらうためには、自由に振る舞って、自由に振る舞った帰結を自分で、つまり、しりをぬぐうといいますが、自分で処理してもらう、そういう訓練が必要なんですね。例えば個人カリキュラム化というのもそういうことです。自分が不快な状態にあるとすれば、周りが悪いというよりも、まず、自分の選び方が悪かったのじゃないか、自分の試行錯誤に問題があるのじゃないかと自分に引きつけて責任をとる、つまり自分でやり直す、そういう態度が実は責任のある態度に結びついていくわけであります。

 そして、そのように振る舞う人間が社会の中に大勢いるときに、我がまま、つまりわがままのままでは、自分のやりたいことも実現できないし、環境が不快になる、だから、いろいろな異なる人間たちと共生するためのルールや想像力が必要だと学んでいくわけです。これは、単なる協調性教育とは違います。

 そこで、協調性よりも重要なこととして自己決定やインディペンデンシーがあるという、日本以外の先進国がすべてとっている態度があるわけです。協調性が大事じゃないということではないのです。協調性は、仲間と仲よくすることではないのですね、むしろ。そうではなくて、社会に対して責任を負うということです。社会はいかような大きさもとり得ます。家族であっても会社であってもいいのですが、家族や会社でしかあり得ないのだとすれば、それは問題のある人間です、この成熟社会においては。

 したがって、冒頭申し上げましたように、まず、個人がかけがえのない個人であること、自分で自分のことを決めることができること、それがまずあって、その後に、相互扶助、社会を媒介にしないと君は君であることは本当はできないのだよということを教える、そういう段取りになるというふうに考えております。

    〔委員長退席、池坊委員長代理着席〕
三沢委員 ありがとうございます。

 次に、簡単にお話し申しますけれども、我々の子供のころは、先生とか周りの近所の人に、将来何になるのだと聞かれたら、すぐ答えがみんな出てきました。プロ野球の選手になるのだとか弁護士になるのだとか看護婦さんになるのだとか、そういうのがすぐ出てきたのですけれども、今これだけ自由になったりいろいろなことが自分で自由にできるのに、今の子供に何になりたいのだと聞きますと、必ず、首を振りながら、わからないという答えが多く返ってくるようになってきているのです。

 今、教育、納税、勤労というのは国民の三大義務ですけれども、この辺のところが今の若い人たちに薄れてきているのじゃないか。ですから、要するに、自分の仕事の夢を持てなくなっているというような子供たちが多くなっていると思うのですよ、将来何になりたいかと言ってもすぐ答えが返ってこないというのは。これだけ自由な、好きなことができる時代なのに、その夢が持てないような時代になっているというのはどういうところだと思われますか。簡単に、お三方。

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宮台参考人 一つは教育の問題と、あとやはり大人の問題と二つあると思います。

 例えば、インターネット会議のようなものを日本の高校生、アメリカの高校生、あるいは日本の中学生、アメリカの中学生とやったりいたしますね。そうすると、例えば将来何になりたいかと言えば、中学生以上であれば、アメリカ人であれば十人がいれば十人、自分はこれになりたい、あれになりたいというふうに、全員が必ず言えます。日本の場合、十人いると一人ぐらい何になりたいと言う人間はいますが、あとの九人は何になりたいかわからないと言います。ですから、アメリカ人の子供たちは、日本の子供たちはばかなんじゃないかというふうに思うわけです。

 これは、はっきり言って教育の問題が一つあります。日本の子供たちは自由だと言われましたが、とんでもありません。学校では自由に試行錯誤させていません。さらに、自由に試行錯誤をするために必要な基礎的な承認、おまえがいるだけでうれしいんだという感覚を、例えば乙武参考人が家族からもらったかもしれないような全面的な肯定感を与えられていません。ですから、日本の子供たちは全く、自由に見えて自由ではありません。したがって、責任はもちろんとれませんし、自分が何がやりたいのかもわかりません。これが日本の子供たちの状況です。

 あと、二番目の状況です。日本の子供たちから見ると、日本の大人たちはやはり頼りないのです。先ほど所属型尊厳と言いましたが、こういうふうな例を出すと不謹慎かもしれませんが、例えば、援助交際をしている女の子たちがこういうふうに言います。客の男は十人が十人自慢をする。しかし、何が自慢かというと、大企業に勤めていることであるとか高級官僚であることとか年収であるとかを自慢する。みんな、わあすごいと言ってあげるのですけれども、女の子たちは、ばかじゃん、こいつと思っているわけであります。

 つまり、成熟社会ではこういうことが起こるわけですね。つまり、自立的尊厳を持っている人間とは違って、依存型尊厳を持っている人間、例えば、もし自分が高級官僚であることを尊厳のリソースにしている人間がいるとすれば、官僚制度がどんなに不合理なものであっても、その官僚制度の存続に固執することになります。なぜならば、それが彼の尊厳の糧であるからです。しかし、成熟社会では、いろいろな組織、システムは流動的にならざるを得ません。何がいいのかということを絶えず検証しながら新しいシステムに変えていく必要があります。

 そのような流れの中で、依存的尊厳を持っている人間は見苦しいわけです、端的に。そのような見苦しい大人たちを、日本の子供たちは、マスコミ報道を通じて、つまり、官僚の不祥事や企業のトップの不祥事を通じて学習し続けているわけです。これでは大人になりたくなくなるのは当たり前であり、こんな大人になりたくないというふうに思うのが当たり前であり、夢がなくなるのが当たり前です。

 以上です。

・・・・・・・・・
石田委員長 次に、保坂展人君。

保坂委員 社会民主党の保坂展人です。

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保坂委員 それでは、我が党から御要請した宮台さんにお聞きしますけれども、かつて、テレクラの取材から始まって、少女たちのサブカルチャーみたいなことをずっとやっていく過程で援助交際みたいなことが大変大きな問題になって、それは、東京都の条例も含めて、数々の規制というものを結果として生んでしまったということがあると思うのですが、今世取山さんに聞いたことと同じことも含めてなんですけれども、どうしても青少年問題というとそういう角度で見よう見ようとする。行政組織というのはとかく、問題として把握して、それに対する、これだけやりましたということを打ち立てようとするものだと思いますけれども。

 では、そうなると、世代間不信といいますか、子供たち、若者の側からは、我々国会議員も含めて、権威があるものあるいは権力を持っているものについては非常に強い不信感と距離感がある。そして逆に、今度大人の側からすれば、髪の毛を染めていたりピアスをしていたり、そういう格好からして、今の若者はもうとてもなっとらんということで、何か対策を講じなければいけないというような、そういうことがやはり少年法をめぐる論議の中でも基底にはあると思うのです。

 せっかくですから、犯罪ということで、アメリカのコロラド州で起きた先日の事件がありましたよね。ああいうことを見ていくときっと、日本と武器の距離の近さでは違いますけれども、神戸事件のときに、義務教育への復讐であるとか、「透明な存在であるボク」という、そういうキーワードに物すごく中高生の心的な反応があった。あれと似たようなことが今回の事件にひょっとして、日本のみならず世界の若い世代にあるのかなと。そういうところをちょっとくくりながら、言い残されたことをぜひお願いしたいと思います。

宮台参考人 ちょっと多岐に質問が及んでいるので端的にまとめてしゃべりますけれども、一般に、日本の大人たちは諸外国の先進国の大人たちに比べて極めて無責任であるという気がいたします。それは、例えば青少年問題というとらえ方に典型的ですが、モグラが出てきたら頭をたたくというやり方で、地下にモグラがどういうふうに穴を掘って、どういうふうな事情でこの時期にモグラが頭を出したのかということを全く検証しようとしない。

 とりわけ、検証するべき側面は二つありますね。日本以外の諸外国は、どういう教育上の施策や、青少年――問題じゃないですよ、青少年にかかわる行政を行っているのか、こういうことを見ようとしていません。

 だから、例えば、中学校段階で一斉カリキュラムが八割以上を超える国は、先進国では日本しかありません。あるいは、みんな仲よし教育を幼児教育でやっている国は日本しかありません。あるいは、これは日本しかとは言えませんけれども、日本以外の多くの教育先進国では、学校の理事会に父母とともに生徒が参加することは当たり前であります。こういうことを知らない人が多いですよね。これは大変問題です。つまり、諸外国でどういうふうに行われているのかをまず知る必要があります。

 さらに、今言ったことの中に含まれていますが、一体子供たちがどうなっているのかをやはり子供たちから聞いた方がいいと思います。乙武参考人がここに呼ばれることは大変喜ばしいことだと僕は思います。しかし、それが珍しいことであっては全くならない。乙武参考人は大学生であります。しかし、中学生や高校生はここに来られないのかという問題ももちろんそこにはあります。

 つまり、そのようなことを通じて、当事者がどういう理由で何を考えて、感じているのかということを検証する責任が大人にはあります。大人から見て問題行動に見えるとか、大人が不行き届きだと感じるとかという問題は二の次にしていただかないと困るわけですね。それがつまり、モグラが出てきたらたたくのではなくて、モグラが地下でどう生きているのか、動いているのかを観察してほしいということです。

 今回のアメリカの事件の背後にはいろいろな要素があります。例えばインターネットを見ますと、ヘイトスピーチと言われるものがたくさんあります。それは、黒人を皆殺しにしろとかそういう人種差別的な、女をみんなレイプしろとか、そういうふうなタイプのインターネットのコミュニケーションというのがたくさんありまして、彼らはそういうヘイトスピーチに参加していたということがわかっています。

 こうしたヘイトスピーチというのは日本では余りありません、全くないとは言えませんが。それは、とりわけアメリカあるいはヨーロッパを初めとする国々には、多くの民族、多くの人種、特に移民が大変たくさんいまして、そういうのから成り立っていて、特にこの成熟社会においては、若い人は以前、自分が不幸だった場合には権力者を何とかしようとか社会を変えようとか思ったのが、やはりそれがかなわないのかよくわかりませんが、弱者がより弱者をたたくという形でカタルシスを得るというコミュニケーションがあって、インターネットのヘイトスピーチもそれに利用されているんですね。そういう側面が一方にあります。これはある意味ではアメリカ的な事情であります。

 しかし、日本と共通する側面を感じます。それは、ちょっと今言ったこととも絡みますが、何か問題があったときに、社会に働きかけてそれを変えようというふうに思えない。こんな学校は嫌だ、だったら別の学校をつくろう、こんな社会は嫌だ、だったら別の社会をつくろうというふうにならないんですね。別の言葉で言えば、僕の言葉で言うと、社会の中を生きていない。社会が不愉快なので単に社会の外を生きる。別の言い方をすれば、他人は必要ない、自分が自分であることにとって他人はノイズでしかないといったような感受性を持った連中が一方に出てきているということはあります。

 しかし、アメリカは、九一年から各州に広がった、クリントン政権も後押しするチャータースクール法に従った教育改革のプログラムをかなり成功させていまして、一部の人は、アメリカの凶悪犯罪がふえたふえたと金切り声を上げますが、しかし少年犯罪全体としていうなら半減しています。凶悪犯はふえていますが、少年犯全体は割合がかなり下がっています。これは教育の成功ですね。もちろん経済的に豊かになってきたこともあります。

 しかし一方で、アメリカは、さっき言ったように、移民、つまりエスニシティーの問題や階級落差の問題を抱えているので、教育だけではなかなか対処し切れない問題があって、それが例えばヘイトスピーチなんかと結びついているというのが僕の考えであります。

 以上です。

石田委員長 以上であらかじめ申し出のありました委員の質疑は終了いたしました。

 これより自由質疑に移ります。

 この際、各委員に申し上げます。

 質疑のある委員は、挙手の上、委員長の許可を得て発言するようお願いいたします。また、発言の際は、着席のまま所属会派及び氏名を述べた上、お答え願う参考人のお名前を告げていただきたいと存じます。

 なお、理事会の協議によりまして、一回の発言時間は三分以内となっておりますので、委員各位の御協力をお願いいたします。

 それでは、質疑のある方は挙手をお願いいたします。

太田(昭)委員 公明党・改革クラブの太田昭宏と申します。

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 宮台参考人の話の中にもあるんですが、大きな時代の変化、豊かな時代の中で、さまざまな意味で人が、子供たちも含めて壊れ始めてきて、大きな、自律的な、あるいは試行錯誤をするという力、そういうものが非常に大事になってくると思うんです。宮台参考人の言葉によれば、失敗にくじけない力、あるいは試行錯誤の中での力、私はそういうものはますます必要になると思うんです。

 自己に打ちかつ力とか苦難をはね返す力。私は、力には能動の力というのと受動的な力、宗教などは非常に能動的な力、何かをやろうとして成功したとかいうことの中で生きていく力もあるが、苦難をしっかり受けとめながらはね返す力というのが宗教とか哲学というものでは非常にあると思うんです。そこの受動の力といいますか、苦難をはね返していく力、生きていく力、自分自身に打ちかっていく力、こういうものをどうやって生み出すかということが私は今非常に大事な課題ではないかと思います。

 その辺で、乙武さんはどういうふうに考えたり、現実には、先ほどは家族ということはおっしゃいましたが、御自身の中でさまざまな意味で蓄積されてきたものが私はあると思うんですが、その辺をお話しいただきたいということと、短い時間で結構ですが、宮台参考人、同じ質問です。そこが非常に大事な、どうはね返していくかということが焦点なんで、宮台参考人、短くて結構ですからお話しください。

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宮台参考人 もし一言だけ答えるとすれば、セルフエスティームといいますが、僕は今回尊厳とか自尊心というふうな言い方をさせていただきましたが、やはりそのセルフエスティームのレベルを上げる、尊厳のレベルを上げるということが、失敗を恐れない、失敗にくじけないために必要な条件だと思うんです。

 繰り返しになりますが、そこには多分二つのファクターがあって、とりわけ幼少期においては、どういう姿形あるいは能力、すべての問題に関係なく全面的に肯定されているという感覚を獲得すること。二番目に重要なのは、それをもとに試行錯誤を行って、つまり、自分の責任で行った試行錯誤で自分は確実に自分であり続けてきたし、より自分らしくなってきたと思えることですよね。

 さまざまな国際比較調査によれば、日本の青少年のセルフエスティームのレベルは顕著に低いのです。社会学のさまざまな理論によれば、セルフエスティームの低い人間は、例えば、逸脱、反社会的な行動等に対する敷居が低くなります。もちろん、こういう行動を厳罰主義や法律的な規制によって対処するというモグラたたき的なやり方もありますが、この日本の子供たちが圧倒的に低いセルフエスティームの状況に置かれているということの責任を、大人たちがそのような施策でごまかさずにとる必要があるというのが僕の考えです。

小島委員 自由民主党の小島敏男です。

 きょうは参考人の皆さん、本当に御苦労さまでございます。いろいろな参考の御意見を聞きまして、大変に勉強になりました。

 私ども与えられた時間が短いので、すぐに議題に入りたいと思うのですけれども、今までのお話とちょっと変わった視点から聞きたいのですが、現在世界の中で大きな問題というと、やはりユーゴの問題という形があります。ユーゴ・コソボの問題ですね。

 それで、コソボの難民が非常に、百万とも百十万とも言われていますけれども、この間見た新聞によりますと、五十一万人の中の半数が十五歳以下の子供たちだということなんですが、ああいう状態の中で教育も文化も経済も何にも論じられないということであって、これは三人の皆さんにひとつメッセージを送っていただきたいのですが、そういう状態の中で、子供たちは何のためにこの世に生まれてきたのだか、大人社会の中で宗教だとか民族だとかそういうことに巻き込まれている子供たち、この人たちに対してどういうメッセージを持っているかということを一言ずつ、簡単で結構ですからお聞かせいただきたい。

 それからもう一つは、私、七人兄弟という、非常に兄弟が多かったものですから、今、宮台先生等からお話があったいわゆる権利義務だとか思いやりだとか、そういうものはやはり兄弟の中で培われてきたのですけれども、今まさに少子化の時代を迎えて、やはり子供たちが少ない、そういう現実があるわけです。

 そういう中で、私はいつも問題点がここにあるんじゃないかなと思うんですけれども、それは、子供たちが、考え方がみんなばらばらなわけですよ。いわゆるコンセンサスがとれていない。先ほどのお話のように、何になりたいんだいと言っても、みんな人を気にしながらやるということで、日本の子供たちのいわゆる愛国心の問題一つとってもいいと思うんですけれども、子供たちの気持ちがぐっと引き締まる、いわゆる目的がずっと一つになるような、そういうコンセンサスをとる方法というものが何かあるだろうかということを私常々思っています。

 一つには、よく、そんなばかなというのですけれども、徴兵という問題がありました。これは、ある一定年齢にいきますとやはり国のために働いたということで、私は徴兵を肯定だとかそういうことをするものではありませんけれども、いずれにしても、そういう一定年齢になったときに、私たちは日本人としての意識を持つために全員が一つのトンネルを通る、お金持ちも貧乏人もない、そういう、人を差別したり何かじゃなくて、同じ目的を持った中にみんなが共同で考える、共通で考える、そんな場がないかなということをいつも思っているんですけれども、そのことに対しても、簡単で結構ですからお一人ずつお聞かせをいただければと思います。

 以上です。

・・・・・・・・・
宮台参考人 私は宗教も研究していますが、そういう宗教の観点からも言いたいことはありますが、社会科学者としてという観点に限定するならば、君たちの中で生き残る人たちも大勢いると思うから、その人たちには、なぜ自分たちの親があるいは大人たちが戦っているのかということをよく分析して学んでほしいということです、長じるにつれて。

 例えば、セルビア民族と言われます。セルビア人は民族というふうに言われますけれども、民族とは何であるのか。民族というのは実は学問的な概念ではありません。当事者が民族だと思うもの、つまり自意識だということが社会科学的な常識です。

 では、どうしてそのような自意識が生まれたのか。自意識の根拠は歴史にあります。ですから、歴史とセルビア人であることとのかかわりを深く学んでほしい。

 さらに、ミロシェビッチ政権というのは、皆さん御存じのように、戦争をし続けることによって政権を維持し続けるという、政治学的に言うと典型的な一つのパターンであります。民族が民族であるためには、他民族を排斥し戦い続けなければいけないわけではなくて、そのような振る舞いを必要とするミロシェビッチ政権という、一つの政権の形態があるだけのことであります。民族が民族であることと、ミロシェビッチ氏が大統領であることとの間に関係があるのかどうか、それも彼らが学ぶべきことの一つであります。

 二番目の質問でありますが、これは愛国心にかかわる問題であります。

 やはりこれは、社会学あるいは社会科学の基本的な定説があります。セルフエスティームの低い人間、自尊心の低い人間が、げたを履くために崇高なものに一体化するというタイプの愛国心があります。これをファシズムというふうに呼びます。これは、フランクフルト学派という、ドイツの、特にユダヤ系の研究者たちが発表した、今では定説となっている研究業績です。そのようなタイプの愛国心は危険です。したがって、私は願い下げです。

 つまり、今のセルフエスティームの低い少年たちが直ちに愛国心を持つ場合には、これは極めて危険です。あるいは、先ほどの質問にもあったアメリカのコロラド州の事件もそうなんですけれども、セルフエスティームの低い人間が、例えばかぎ十字に一体化する、あるいはヒットラーもどきに一体化するといった現象がアメリカのサブカルチャーの中に存在しています。これも極めて危険です。

 私の望む愛国心は、セルフエスティームの高い人間が、自分の高い自尊心を支えているさまざまな道具立ての基礎にある公共善あるいは公共財を支えるために献身するというタイプの愛国心であります。言いかえれば、セルフエスティームの高い人間が抱く愛国心を私は望みます。それ以外の愛国心は願い下げだということになります。

石毛委員 民主党の石毛えい子と申します。

 きょうは、大変示唆に富む、そして私にとっては刺激的な出会いをいただきましてありがとうございました。時間もありませんから、端的にお尋ねしたいと思います。

 きょう、六・三制とか高校入試とか、あるいはカリキュラムの問題とか、教育制度の話が出ましたけれども、端的にお尋ねしたいと思いますのは、日本の教育制度の中で、養護学校義務制実施というのがございます。

 先ほど乙武参考人が、ゼミで、子どもの権利条約と関連して教育の問題の研究をされているとおっしゃっています。私自身は、子供を、できる子とできない子、あるいは個性、さまざまな違いによって分けるという、要するに、学校入学指定権を教育行政が持っているということに対して、私自身は反対の立場でおります。ですから、養護学校義務制というのは、今、非常にあいまいに運用されるようになってきていますけれども、制度とすればなくすべきものと私は思っております。

 自分の見解を簡単に申し上げました上で、三人の参考人の皆様に、養護学校の問題点について端的に御指摘いただければというふうに思います。よろしくお願いいたします。

・・・・・・・・・
宮台参考人 養護学校に限らず少し問題を広げさせていただきますが、要するに、子供観、人間観の問題と障害者観の問題がやはり密接に結びついていることをお話しさせていただきたいと思います。

 九〇年代に入るころから、日本でも、ようやく障害者と性、セックスの問題が一部で話題になるようになってきています。実際、障害者の介助をされている方の中には、僕もたくさん知り合いがいますが、障害者から、セックスをしてくれ、お願いだからというふうに言われるケースが最近出てきています。一部で、障害者専門の性的サービスを提供するソープランド嬢も、一部のマスコミで話題になったりしています。しかし、そうしたことは、一般にまだ公の場で議論されることはありませんし、もう少し踏み込んで言うならば、障害者や障害者にかかわるさまざまなサービスにかかわる人間たちを、どう言ったらいいでしょうか、子供視と同じなんですね、ある種の神聖視をするというふうなところがまだあります。それは非常に僕は問題であろうかと思います。

 日本のそのような考え方は、実は、抽象的に言うと、こういう考え方と結びついています。つまり、人間の権利、人権は能力に応じて与えられるという発想です。そんなことはないと言いますが、例えば、日本の保守論壇などを見ると、子供たちは自己決定能力が低いから自己決定権があるはずがないという議論がいまだに行われており、それがむしろ大勢であります。

 一体、権利は能力に相関するのでしょうか。そんなことはあり得ません。これは人権概念のイロハのイです。もし、自己決定権が能力に関係するという思想を許すならば、それは直ちにナチス的な優生思想に結びつきます。これはナチスだけではなくて、一九七二年までのスウェーデンも同じような考え方を一部でしていました。強制的断種手術が行われてきたことは、皆さん御存じのとおりであります。

 その意味でいうと、もう一度繰り返しますが、人権は、権利は能力に関係なく与えられます。先ほど、世取山参考人が、人権という眼鏡をかけて見ると全員が輝いて見えるというふうにおっしゃったのは、そういうことなんですね。そういう人権概念のイロハのイが、まだ日本の大人たちによって大して理解もされず、権利が能力に相関するかのような議論がされているのはいまだに非常に問題であると思います。

 そのような考え方が、例えば、一見、健常者に比べると、その部分だけ比べれば能力がないように見える人間を子供視する、保護の対象とする、その結果、大人並みの権利がある人間として見えない、感じられないという現象が起こっているのだというふうに思っています。

下村委員 自由民主党の下村です。

 貴重な御意見をありがとうございます。時間がないので、宮台参考人にお聞きしたいと思うのですけれども、非常にシャープな分析の仕方で、大変にわかりやすいお話です。

 その中で、先進国の教育問題というのは、それぞれ、先ほどクリントンの教育改革の問題も発言されましたし、イギリスでも、サッチャー、ブレア等、やはり教育改革ということを目指してやっておりますけれども、それぞれ共通項もあれば、あるいはそれぞれの国によっての違いというのもあると思うのですね。

 その中で、我が国におけるほかの国との比較の中で、宮台参考人が考える、制度改革ではなくて、教育における本質的な改革で、この日本においてどこに一番切り込む必要があって、それをどうやっていくことが本質的な教育改革になると思われるのか、感じられていることがあればお話をしていただきたいと思います。

宮台参考人 七〇年代に入りまして、成熟社会化を迎えました。つまり、何が幸いなのかは人それぞれだというふうな合意が多くの先進国で生まれて、そこから教育改革に進むわけですが、実はそこから先は、今までの一斉カリキュラムがなくなった後は、非常にさまざまなタイプの教育のプログラムが提案されてきています。

 強いて共通性を挙げるならば、簡単に言えば、個人カリキュラム化に代表されるように、子供たちに選ばせる、子供たちが選ぶという、そういう契機をどこかに入れるということです。その結果、例えば、学校で起こることの半分はという言い方は語弊があるかもしれませんが、かなりの部分を、それは君が選んだ結果そうなったんだよというふうに、そういうふうに感じてもらえるような枠組みをつくっているということです。

 そこから先、例えば学級担任制を維持するのか廃止するのかとか、あるいは学級を維持するとして人数をどれだけにするのかとか、実際にはやり方はさまざまであります。あるいは、学校に評価権を持たないスタッフをどの程度入れるのか、あるいは学校の理事会に子供の人数、親の人数をどのくらいの割合で入れるのかということも、それぞれの考え方があって試行錯誤しているという形だと思います。したがって、このプログラムさえあればうまくいくというふうにむしろ考えない方がよく、一斉カリキュラム的な時代の後は、要するに、個人に、子供たちに試行錯誤してもらうためのプログラムは非常に多様であり得ると。

 先ほど乙武参考人もおっしゃったように、例えば、僕はよくクラスを廃止しろというふうな言い方をします。これは、わかりやすいからそういうふうに言うんですけれども、全部クラスを廃止しろと言っているわけじゃなくて、クラスを廃止する学校もあってもいい、学級が担任制の学校があってもいい。どれに行くかを選んで、それで失敗すれば自分で別のタイプの学校を選べるようにすればいい、これが基本的な考え方なんですね。つまり、選べるチャンスをふやすというのが、一般的に言うならば、先進国の教育改革に共通している部分だろうというふうに思います。それが、先ほど別の先生からの質問がありましたように、責任という概念とまた結びつく生活態度となってあらわれるというふうに思っているわけです。

石田委員長 まだ質疑を希望する方がいらっしゃいますが、予定の時間が参りましたので、本日の参考人に対する質疑はこの程度で終了することといたします。

 参考人各位におかれましては、貴重な御意見をお述べいただき、まことにありがとうございました。委員会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。

 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。


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(キタノ)
ki@tree.odn.ne.jp
http://zirr.infoseek.ne.jp/
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---- 北の系2005 ----

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