2002.09.26
連絡網AMIメーリングリストより
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加筆。
「石に泳ぐ魚」事件に対する評価でよくある誤解は、「作者はモデルの同意を得ないで勝手に書いて出版しようとしたのは許せない」という批判です。モデルは「石に泳ぐ魚」の出版それ自体には同意しているんですよ。しかも口頭でだけではなくて、第三者立合いのもとできちんとした文書にもなっているわけです。
問題は、出版に同意するという前提として、モデルはどこまで修正条件を作者に要求できるのか、という点です。
書き替える権利がモデルにあるとしたら、それはどこまでの範囲なのか。モデルだからといって、モデルになった部分とは無関係な部分についてまでアレコ口出しして作品を書き替える権利が認められるわけではないでしょうから、そこをきちんと作品の内容を踏まえた判断が必要です。
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加筆。
「人を傷つける言論はすべて認められないから排除すべきである」という主張を、よく見かけます。たしかにプライバシーの保護は必要です。
しかし、プライバシーはすべてに優先する絶対的な権利ではないと、私は考えます。
この議論は言論表現の自由の合憲性基準問題と重なる大きな問題なのでそのうちきちんと考えをまとめたいと思っていますが、私は、一定の範疇の言論表現については、絶対的に国家からの統制は排除されるべきだと考えています。その理由は、民主主義社会の維持にとって、公共性のある一定の範疇の言論表現の保護がどうしても必要だからです。
一定の範疇とは、民主主義的秩序維持の前提となる以下の言論表現活動を指します。
1、政治的言論、公務に関する情報
2、公共の利害に関する情報、報道
3、評論、芸術、社会的事象や社会問題をテーマとする思想表現
この三つの範疇に属する情報、…人の心を理性・感情両面から動かす公的価値を持つ情報…は、国家から不可侵であるべきです。ポイントは、その情報にどれだけの公共性(パブリシティ)か゜あるか、という点でしょうね。
たとえば、「石に泳ぐ魚」については、プライバシー対表現の自由という二項対立としてとらえるのではなく、「石に泳ぐ魚」が表現する「人はなぜ恨み、生きるのか」というテーマに芸術として保護されるパブリシティがあるかどうか、モデルを題材にした表現がその作品のパブリシティにとって必要だったか否かという議論については、おおいにやるべきだったと思うし、そのような議論によってプライバシー対表現の自由の対立問題はとらえ直されるべきではなかったかと思うのです。
もちろん、すべての報道や芸術を"個人が"受け入れろと言いたいのではありません。国や社会をどうすべきなのかという公共性のある問題については、各個人の価値観に基づいて自由に評価する環境が整っていることが民主主義社会にとって必要で、だからそのような環境を維持するためには"国家が"公共性のある一定の範疇の言論表現活動に介入したりその優劣を判定すべきではない、ということです。
報道ならその報道活動自体への批判活動は当然あってしかるべきですし、芸術作品に対しても展示や流通の選択や批評などによって私人間における評価は活発になされるべきです。というか、「よい芸術とは何か」「よい報道とは何か」といったテーマについて個人が考え評価する民間(業界)の社会的システムが不完全であるからこそ、国家権力の介入の必要性が高まってしまう、という側面もあるのではないでしょうか。
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